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幼稚園からのおしらせ

2011.06.24  一つのからだ、多くの部分

先日、幼稚園の運動会が微妙な空模様を気にしながらも無事終えることができました。みなさんのご協力ありがとうございました。運動会を実施するにあたり本園で特に意識していることは、競技や演技を通して単に子どもの能力を伸ばし、協調性を養うことだけではありません。自分に与えられた力を他に勝る為ではなく、他を活かす為に使うことです。まわりのお友達のために自分の持てる力を使ったり、抑制したりするのです。そうすることによってまわりのお友だちもどんどん成長します。競争競技も勝つことが目的ではありません。お互いの為に自分の全力を出し切る充実感と喜びを共有しあうことが大切なのです。友だち一人ひとりが、かけがえのない大切な存在なのだということがこの時期にしっかりと心に刻み込まれて、はじめてそこに他者を思いやる心、そして健全な競争心と協調性が芽生えると信じています。私たちが子供に伝えたいこと、否、子どもたちの心にすでに芽生えていて、私たちがそれを育んでいきたいと願っていることは、他を出し抜いて自分だけが上に上がるためではなく、他を生かすために自分の力が与えられているのだということです。

聖書に以下のような記述があります。

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせ、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(Ⅰコリント12:12)

解説をするまでもないと思いますが、これこそがよく言われる「One for all, all for one」の原点です。別のイメージを用いて言うと、私が好きな例えはオーケストラです。私たちが目指すのはオーケストラのような合奏です。ひとり一人の奏でる楽器は音色も音の大きさもさまざまです。同じ音色の楽器だけではあのような豊かさは表現できません。時には消え入るような小さな音色の楽器が全体を生かすのです。違いがあるからこそ豊なのです。互いの違いを生かしあうところに豊かさが生まれます。

本園がモンテッソーリの教育理念を取り入れて縦割り保育を実施しているのは、上述のことを実現したいと願うからです。